(この文章は2018年4月3日に書いたものです)
すばる文学賞に、長編の文学小説を投稿しました。
最近、エンターテイメントの小説ばかり書いて投稿していたんですけど(コメディとかミステリーとかホラーとか)、久々に文学を書いてみました。
「エンタメ(大衆文学)」と「文学(純文学)」の違いはよく議論されていて、人によってその基準は異なると思います。
読者にとってはその作品がエンタメだろうが文学だろうが、面白ければどっちでもいい、って感じだと思うんですけど、書き手にとってはそれによって投稿する賞が変わってきてしまうので、一応考えないといけないんですよね。
「文学」の代表者、ミシェル・ウエルベックについて
僕の考える「文学」の代表者が、現代だとフランスのミシェル・ウエルベックという作家なんです。
ウエルベックは過激な題材を扱うので世界中で話題になっている作家なのですが、書いているテーマは基本的には毎回同じなんです。
恋愛や人生に悩んでいる人が、混沌とした現代社会の中で、必死にもがいている話です。
最近ウエルベックのデビュー作の『闘争領域の拡大』が文庫になったので、十年ぶりに読み直してみました。
正直、読む前は、十年前の感動はもう、味わえないと思ったんですね。
ところが読み終わったあとに、最初に読んだ時よりもさらに衝撃を受けたんです。
ウエルベックはこのデビュー作のあと、SF的アイデアを取り入れた『素粒子』や『ある島の可能性』、政治的なアイデアを取り入れた『服従』などで、どんどんベストセラー作家になっていくのですが、三十六歳のときに書かれた処女作は、ものすごくシンプルな構成で、料理でたとえていうならば「味付けは塩のみ!」みたいな感じなんですね。
「三十歳のサラリーマンの男が出張に行って帰ってくる」ぐらいのストーリーしかないのに、とんでもなく面白い。
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闘争領域の拡大とは何か
主人公は、社会の恋愛システムに怒り、苦渋を味わっています。
主人公のモノローグを引用します。
『経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく』
恋愛と資本主義のシステムは似ていて、恋愛においても闘争領域が拡大してしまったために、格差が生まれているとウエルベックは言います。
さらに、小説を書いている主人公は、書くことについても語ります。
『さまざまな感情を細やかに描写したり、キャラクターを描き出したりする才能を売り物にしている作家もいる。僕をそのひとりに数える人間はいないだろう。そうした現実味のあるディーテールの積み重ねは、さまざまな作中人物を描き分けることと看做されているが、僕にはそれがいつも、こう言ってはなんだが、まったくくだらないことに思える』
エンタメにおいてもっとも大事と言われる「キャラクター作り」を、くだらないこととウエルベックは一蹴するわけです。
ウェルベックにとっての小説を書く意味
では、ウエルベックは小説に何を書くのでしょうか。
『僕の狙いは、より哲学的なところにある。その狙いを達成するには、逆に無駄をそぎ落とさなくてはならない。簡素にしなくてはならない。たくさんのティテールを一つひとつ破壊していかなくてはならない』
文学が、キャラクターやプロットなどの無駄をそぎ落としたものだとするならば、一歩間違えれば、(というか、ほとんど多くの文学と呼ばれる作品は)、作者が社会の不満を垂れ流している、自己満足の愚痴小説になりがちです。
だから、僕は文学をあまり書きたくないんですね。袋小路に入ってしまう危険がありますから。
しかし、一部の文学作品は、ただの愚痴でも不満でもなく、社会の不公平なシステムや不条理を暴いて、社会に戦いを挑もうとする意志を与えてくれます。
そんなことができる可能性が微かにでもあるなら、この時代に文学を書き続ける意味は確かにあるでしょう。
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